ハワイ移民資料館仁保島村(にほじまむら)- nihojimamura

来館者の声

当資料館「仁保島村」へ来館くださったお客さまからたくさんの声をいただいております。大変励みとなっております。誠にありがとうございます。いただいたコメントの中から一部ご紹介いたします。

  • 下里宏子さま(2024年3月来館)

    3月14日に訪問いたしました。
    仁保島村の「ハワイ移民資料館」はインターネットで見つけました。仁保島村のホームページにはハワイ移民の当時の生活に関わる資料や写真などぎっしり展示されていて「これはすばらしい!」と思い川﨑館長に連絡させていただき訪問することができました。
    
    私の祖母の両親は山口県出身で明治31年にハワイに私約移民しました。祖母は8人きょうだいの長女でハワイで産まれました。祖母だけが日本に戻り親戚に育てられました。祖母は両親や弟妹たちのいるハワイには何度も船で行ったリ来たりしていました。私も幼いながら祖母がハワイからお土産を届けてくれるのを楽しみにしていたことを覚えています。ハワイの南国感が心地よかったです。
    
    先週ハワイの3世の親戚と会いました。日本の四国旅行の最終日に大阪に寄ってくれ難波で夕食を共にしました。私は英語が話せません。彼女たちも日本語が話せませんがお互いスマホの翻訳で家族のこと仕事のこと旅行のことを共有し楽しい会になりました。
    
    思いきって仁保島村へ行き川﨑館長にお会いし私の祖母たちの移民のお話を聞いていただけて嬉しかったです。明治時代、海の向こうの外国のハワイで生活すること働くことにどんな思いがあったか、苦労や困難も想定内でそれ以上の夢や希望に満ちていたのかもしれないと思うと私も元気がわいてきます。
    
    川﨑館長の「ハワイ日本人移民史」はどの章から読んでも移民史が盛りだくさんです。こんなに膨大な資料を集められ纏められすごいとしか言いようがありません。私はこの本を手に入れることができてほんとにラッキーでした。私は移民史を学習し再び資料館を訪問したいです。またお話をきけることを楽しみにしています。
    ありがとうございました。
  • 捧大輝さま、瀧本萌さま、古瀬凪さま、矢吹祐悟さま(2023年8月来館)

    「平和は祈っても来ない。膨大な国力が必要である。」川崎さんが繰り返したその言葉に、平和を何よりも望む熱い気持ちを感じた。日本人が移民として必要になった裏側には、当時の日本の経済不振や、日布間での不平等条約があったと学ぶことができた。生で目にする写真やはがきなどの資料の数々はどれも、これまで教科書で見たものとは比べ物にならないほど当時の状況を想像しながら考えることができた。
     被爆者である、川崎館長の「8月6日は静かに被災者を思ってほしい」という貴重な意見を聞くことで、資料館にある貴重な資料を色々な見方・考え方をもって見学にのぞむことができた。実際の資料を見ることでサイズ間や文字の濃淡などで時代の背景について考えることができたため良い機会となった。
     「なぜ、日本から移民が必要か」「なぜハワイなのか」という点をから、ハワイ×移民のそれぞれの歴史のお話しを聞き、学ぶことができた。また、実際の資料や展示物を見ながらお話を聞くことで、その時代背景・出来事を感じることができた。
     川崎さんの話を聞くことができるのと同時に現物の資料を見ることができ、実際に触ることができたので自らの学びに繋がった。質疑応答にもしっかりと答えてくださり、その他のことまで教えていただき、貴重な体験をさせていただいた。
    東京未来大学 モチベーション行動科学部 3年生
  • 内田真仁さま(2023年6月来館)

    内田真仁様より、ハワイ島盆ダンスの手拭い13枚の寄贈がありました。
    中でも、「砂田君子開教使 初盆」の手拭いが目を惹きます。
    遠くハワイで盆踊りが受け継がれていることに感動を新たにし、投稿をお願いしました。
    
     この度川崎館長には多大なご指導をいただきました。日系移民の研究をするうえで、最初に出会っておきたかった、それが大きな感想です。館長が集められた豊富な資料はもちろんのこと、様々な引き出しがある豊富な知識を直接お伺いできたことが素晴らしい出会いです。お話を聞くうちに、私の中で散らばっていた知識が、すっとまとまった気がします。 私とハワイの出会いは、大学生のころでニューヨークなど米本土から日本に帰る際に寄ったオアフ島、マウイ島での滞在がきっかけでした。渡航前は、日本人観光客に人気で日本語が通じるという勝手なイメージの下、「単なる観光地」という想像でした。数日間を過ごすうちに、観光地としてハワイが好きになっていました。 次第に現地の人との交流も出来、ハワイ島でのある日系のかたとの出会いがその後の研究者としての道を開くことになりました。お寺がある、盆踊りもある、仏壇も灯明も線香もある、そして天ぷらを食べ、うどんを食べ、アジの開きも食べる、そんなハワイを知ることが出来ました。その後幾度となく疑問があれば、ハワイに赴いて現地調査を繰り返し学位論文執筆に結び付けました。 盆踊りの調査では、金曜、土曜の開催に合わせて日本を木曜に出発し、ダブルヘッダーで2ケ寺を回ったり、金曜日はカウアイ島、土曜日はハワイ島など島を飛び越えて調査したりもしました。ハワイの盆踊りは「Bon Dance」と呼ばれることが多いのですが、現代日本の一般的に宗教色を抜かれたそれと違い主に寺院で行われるお盆の行事としての「盆踊り」です。そこには、浴衣や法被を着用して踊る、現地の様々な人種のコミュニケーションを見ることが出来ました。日系人をはじめ、白人、ネイティブ・ハワイアンなどコミュニティの年中行事として機能していることが分かりました。しかしながらそこにいない人、それは「日本人観光客」です。個人的な意見としては、毎年200万人弱の日本人観光客がハワイを訪れるわけですから、是非参加して盛り上げてもらいたいものです。 さて、今までハワイの現地調査を何度もしてきたわけですが、ここ数年はコロナ禍により実現できていません。しかし、ハワイに行けない今だからこそ散在していた自分自身の知識や資料をまとめる道筋を、川崎館長に見せて頂きました。今回の訪問を機に、新たなフェーズに向かっていきたいと思った出会いでした。
    関東学院大学 国際文化学部 文学博士
  • 溝口雄介さま (広島県立黒瀬高等学校)(2023年5月来館)

    現職教員長期研修制度により広島大学大学院に内地留学中の、広島県立黒瀬高等学校溝口雄介先生が、ゼミの研究テーマを携えて来館。
    「これは面白そうだ」「いかような料理に」気持ちが通じたのか、その全文を拝見することができました。
    大学とご本人の同意をいただき「ニュース」の項に掲載しました。
    是非ご覧下さい。
    
    「ニュース」の項はこちらから
  • 中野真備さま(2023年6月来館)
    人間文化研究機構・東洋大学アジア文化研究所特別研究助手

    東京から訪問しました。
    広島に用事で行くことになってから、たまたま地図で見かけたハワイ移民資料館仁保島村に立ち寄ることを楽しみにしていました。
    川崎館長には前日に突然ご連絡したにもかかわらず、快く資料館を開けてくださり感謝しております。
    
    私設の資料館とは思えないほど、圧倒的な量の貴重史料が館内を埋め尽くしていて、それも丁寧に整理・保存されています。
    あまりに濃密な空間で、気付いたら4時間経っていました。
    特に印象的だったのは、ハワイ移民としての歴史的経緯を示す史料だけでなく、彼らの旅路や現地生活を語る史料の多さです。
    そのとき確かに生身の人間がそこに生きていた、というあたりまえのことに気づかされます。
    柳行李を背負って船に乗り、ハワイの地で「ホレホレ節」を歌いながらサトウキビの葉を落とし、家族とともに高床の家で暮らしていた風景が目に浮かぶようでした。
    
    また、こうした史料の多くは川崎館長自身が集めてきたものが多く、ひとつひとつ丁寧で詳細な説明をうかがうことができました。
    館内で購入できる『ハワイ日本人移民史』は、一次史料に基づいて精緻にまとめあげられた著作であり、これも必見です。
    
    今度はこの『ハワイ日本人移民史』を読み込んでから、また資料館を訪れたいと思います。
    
    川崎さん、ありがとうございます!
    
    Makibi Nakano Ph.D
  • 彌島眞帆さま(2023年5月来館)

    I had an amazing time thanks to Mr.Kawasaki and his museum. Thank you so much. Even though I am a student, Mr.Kawasaki explained  Japanese American`s history in a very polite way and he showed me many things historically precious which surprised me so much. 
    Family passport history of the Nishiharas showing farther, picture bride mother, and their son coast guard soldier impressed me so much that I will talk about it when I meet Hiroshima-Kenjinkai in Hawaii in September this year. 
    Mr.Kawasaki always considers it very important to have friendly relationships with Hawaiians of Japanese ancestry, which also moved me so much. 
    Mr.Kawasaki, many thanks for your great effort of showing so many warm-heated exhibitions in this museum. To tell you the truth I am a typical Japanese always speaking Japanese but this experience led me writing my comment in English as if I were an American of the Japanese ancestry. Thank you again.
    
    Maho Yajima Graduate Student of Kokugakuin University majoring in History 國學院大學大学院 日本史専攻 彌島眞帆
  • Dr. Patsy Y. Iwasakiさま(2023年4月来館)

    I have always wanted to visit Nihojima-mura for many years after learning about all the good work Mr. Hiroshi Kawasaki has done to preserve Hawai‘i-Hiroshima migration history. 
    
    As a professor at the University of Hawai‘i at Hilo, my research interests and teaching practices include Hawai‘i - Japan migration, community-based, culturally-relevant resources in education and cross cultural exchange and collaboration. 
    
    So it was with such a delight that I was able to visit Nihojima-mura and meet Mr. Kawasaki during April 2023 along with Takahiro Yamamoto, a professor at the Hiroshima University of Economics. 
    
    Mr. Kawasaki was generous with his time and unique facility that includes a museum and many artifacts documenting the history of Hawai‘i-Japan immigration, especially from the Niho area within Hiroshima Prefecture. He remarkably knows each item in his amazing collection - sharing the background and story about each piece - from a treasured letter from Sen. Daniel K. Inouye to an antique lantern in the bathroom. 
    
    He is an excellent and energetic story-teller and he enthusiastically brings each artifact to life. I was quickly drawn into the people and stories of his collection! I was most impressed by his research and the obvious care and respect he imparts upon each piece and corresponding story for its part in the overall migration narrative.
    
    Thank you so very much Mr. Kawasaki for your excellent hospitality and time that you shared with me! I learned a great deal about the history and important connections between Japan and Hawai‘i through the lens of the Nihojima area, a very special region in Hiroshima. A big MAHALO NUI LOA to you! Thank you very much!
    
    Dr. Patsy Y. Iwasaki English Department, Humanities Division University of Hawai‘i at Hilo
  • 山本 貴裕さま(広島経済大学 教養教育部 教授)(2023年4月来館)

    I visited Nihojimamura for the first time since the outbreak of the pandemic. The place has been renovated and Kawasaki-san is as full of energy as ever! I was there with Patsy Iwasaki, who had always wanted to visit the place.
    
    Kawasaki-san was generous enough to show us some of his rare collections. He's got so much stuff that will take years, or maybe a lifetime, or even longer, to sort out, but he somehow figures out how to tell compelling stories based on the materials he picks out almost instinctively.
    
    He told me that he spent a lot of time in the process of writing his latest book at the library at Hiroshima University of Economics, where I work. He used microfilms available there such as Hawaii Hochi to get the facts about the stories he was putting together.
    
    Patsy and I were instroduced to materials we had never seen before. The thing that struck me most was the fact that a small area called "Fuchizaki," the very area surrounding Nihojimamura, sent so many immigrants to Hawaii and that they formed a society of people called "Jinkai" in Hawaii. It is as if the whole local community was transplanted in Hawaii!
    
    I'd like to thank him for the hospitality he extended to us and the valuable contributions he's been making to the preservation of a very important, though rarely told, part of history of Hiroshima and Hawaii. Thank you!
    
    Takahiro Yamamoto, Professor & Coordinator of Hiroshima-Hawaii Cultural Exchange Project at Hiroshima University of Economics.
    
  • 熊本大学 大学教員(匿名希望) さま(2023年3月来館)

    I am interested in how Japanese society, mainly local areas that sent out many emigrants, inherits migration history. I was researching it, and that is how I found this museum.
    At first, I was curious about how and why Mr. Kawasaki established this museum all on his own. He generously told me how everything started about 30 years ago, and surprised me with his passion and enthusiasm for the history of Japanese migration in Hawai'i.
    Although my visit aimed initially to learn about activities to inherit the history of Japanese migration, I was also overwhelmed by the number of maps, letters, certificates, and pictures hung on the room's walls. Each of them has a story of each individual, such as when and how the original owner of the certificate migrated or how the people in the picture lived in Hawai'i. Moreover, Mr. Kawasaki showed me a series of certificates that told me about a life of a migrant woman in the long term.
    As a researcher of migration studies, I knew some about Japanese migrants in Hawai'i, but it felt like a historical event, and I could not feel it was real. However, after seeing all these photos and documents, I can picture how migrants lived more vividly and am even more interested in it.
    I appreciate Mr. Kawasaki for taking the time to introduce me to the world of Japanese migrants in Hawai'i.
    
  • 田中 真奈美 さま(2023年2月27日来館)

     念願であったハワイ移民資料館「仁保島村」にやっと訪問することができました。私は、1985年から22年半ほどサンフランシスコに滞在していました。当時は、今のようにインターネットもなく、渡米当初は心細い毎日でしたが、多くの日本人や日系人からサポートしてもらい、アメリカ社会での生活を送ることができました。日系一世や二世との交流もあり、初めて100年前に海を渡った日本人がいることを知り、彼らの強さに心を惹かれ、興味を持ちました。そして、いつしか日系人について、詳しく知りたいと思うようになりました。
    アメリカに滞在していた頃は、ロサンゼルスにある全米日系人博物館を訪ねたり、日系人のイベントに参加したりしました。日本帰国後は、日本で日系人がどのように知られているのかに興味を持ち、「仁保島村」は訪れたい資料館の1つでした。
    資料館に入ると、まず目を引くのは、高い天井です。そして、左手に並んだ多くのトランク。帰国時に使用したと聞き、どんな思いで荷造りをしたのだろうと思いを巡らせました。資料館には、パスポート、写真花嫁の写真、訴状、出生証明書、帰化証明書など、数多くの貴重な資料があり、それを手に取って見せてもらえることに、びっくりと共に感動しました。また、資料が関連付けられていること、館長の川崎さんの知識の豊富さにも感銘を受けました。
    私が、一番心を惹かれたのは、私の写真の後ろに写っているパープルハート勲章と写真です。写真は、日系二世が強制収容所から退所後の1年後に集まった時の記念写真です。色々な苦労や困難があったはずですが、皆さん素敵な笑顔であることに何とも言えない気持ちになりました。
    3時間ほど滞在しましたが、時間を忘れるほどであり、また時間が足らなかったと感じました。次回は、事前に準備をしっかりし、時間を十分にとって、近いうちに訪問したいという思いと共に、資料館を後にしました。そして、多くの方にこの資料館を訪問し、日系人について学んでほしいと強く感じた訪問でした。
    
    学校法人 三幸学園 東京未来大学 モチベーション行動科学部 教授 教育学博士
  • 金子 龍司 さま(2023年2月18日来館)

    昨日ウォント先生と訪問させていただいた金子龍司です。
    
    秘蔵史料の数々はどれも一級品で、保存状態の良さにも圧倒されてしまいました。
    館長に親しくご説明いただいた3時間はあっという間で、日帰りで日程を組んだことを著しく後悔しました。
    
    私は戦時期の流行歌や舞台などの娯楽を研究してきましたが、とりわけ印象に残ったのが一世の方が残したホレホレ節と盆ダンスの音源でした。
    ホレホレ節の迫力と、歌詞が英語に切り替わる盆ダンス(しかも合いの手は「ドッコイショ」のまま)の面白さは忘れられません。
     
    ホレホレ節の歌い手の方は、熊本出身のはずなのに広島の言葉をインタビューで使われていました。なぜか。館長のお話を伺って、目からうろこでした。
     
    生の一次史料や肉声をこれだけ肌で感じられる資料館は他にないと思います。
    今度はもっとゆっくりお伺いしたいと思っています。
    とても楽しかったです。
    本当にありがとうございました。
    学習院大学法学部非常勤講師 法政大学大原社会問題研究所嘱託研究員


    ウォント 盛 香織 さま(2023年2月18日来館)

     資料館にはハワイへの日本人移民に関する一級史料が溢れんばかりに陳列されていて、まず視覚的に圧倒されました。しかし、資料館の凄さは、これだけではないのです。館長が陳列棚からむんずと本土で強制収容されていた方の手紙を取り出して、「読んでみなさい」と手渡され、触覚でも移民の方の思いが伝わる点です。
    「こんな貴重な資料を触ってしまっていいんだろうか」と躊躇しつつ拝見しました。
    「ホレホレ節」では聴覚が刺激され、ハワイのジュースで味覚まで満たしてくれようとする、
    こんな資料館があるなんて信じられないと思いました。
    
    私は特に、女性移民の経験に関心があるので、写真花嫁を呼び寄せた方の手作りの布の封筒と、はがきに書かれていた「コレヲモチテムカイニデナサイ」の文字を見た時、これから結婚しようとする二人が、どんな思いで互いの写真を見て、会うのを待っていたのかを想像し、心が大きく揺さぶれました。また、館長から自前芸者の話を伺い、強く興味を持ち、研究意欲が刺激されました。
    
    資料館の資料は来訪者の心を大きく打つと思いますが、何よりも私の心が打たれたのが、初めて会う私たちに、苦労して集められた資料の数々を惜しげもなく見せて、教えて、さらにはリラックスさせようと笑わせてくださる館長の温かさでした。そして、日本人移民は棄民ではないと熱く語る館長の強い研究意欲にも心を打たれました。
    
    またぜひ訪問させていただき、「川崎クイズ」に答えられるよう『ハワイ日本人移民史 1968ー1952(明治元年から昭和27年)』をしっかり勉強しておこうと思います。
    
    甲南女子大学 国際学部 国際英語学科 学科長 教授 Ph.D.
  • 松田 哲郎 さま(2023年1月来館)

     1月3日の午後に見学させていただきました松田哲郎でございます。
    正月にもかかわらずお時間をとってくださり有難うございます。
    
    広島市への訪問は2度目で、自分自身ハワイとのつながりはありませんでしたが、奉安殿を調べていた過程で、偶然ハワイ移民資料館を地図上で見つけたことが訪問のきっかけです。
    しかし訪問が元日だったので躊躇していたのですが、公設でないことがわかり今回は諦めて次回にと考えたときに、いつになるか不明だったので無礼を承知で3日にお電話させていただいた次第です。
    
    宮城に戻った後、7人の知人(1人は東京)に“ハワイへの移民は南米の移民とは性格が違う”ことを話しました。皆さん私と同じく差異を知らなかったということは日本人の殆どが知らないことなのだろうと思いました。
    
    宮城県から官約移民としてハワイに渡った大槻幸之助についても知らなかったので県図書館に行って色々と探しています。
    ただ残っている資料がとても少ないことが残念です。
    
    朝日新聞の天声人語に、“年末年始の図書館の休みは辛い”とありました。
    まさに同じ気持ちで私はこの時期に旅行をしています。
    今回の旅行で宮島にも行ったのですが、ハワイ移民資料館が最も印象深かったです。
    感謝します。
    
  • 梅津 彩音 さま(2022年9月来館)

     福島県から伺いました。
    父方の祖父家系がハワイの移民であることで、今もハワイの親戚と連絡を取っています。
    祖父の父方は福島出身、祖父の母方は広島・廿日市の出身。
    祖父の父方の話については、近くに親戚が居たので話をよく聞いておりましたが、広島の方は全く分からなかったため、何か手がかりがないかとお伺いしました。
    館長の川﨑さんにその旨をお伺いしましたところ、快く情報収集をしてくださいました。そして大変貴重な本の初版や移民の資料の中から、おそらく私の広島系の高祖父母(曽祖父母の親)であろう二人を見つけることが出来ました。
    また福島系の曽祖父一族についても新たな資料を発見することができました。福島県もハワイへの移民が多い県だそうですが、川﨑さんから「福島県の移民は言葉の違い(方言)もあったから団結していた。だから資料もたくさん残っている」と伺い、東北人独特の結集力というかコミュニティの団結力がこんなところにも出るのかと驚きました。
    自分のルーツを知ることができて感慨深いです。
    また足を運びたいと感じております、どうぞよろしくお願いいたします。
    
  • 中澤 純一 さま(2022年9月来館)
    東京未来大学 モチベーション行動科学部

     『ハワイ移民資料館』、これまでハワイ島を訪れ多くの日本人移民・日系人の方々と出会ってきた私にとって、いつかは訪問してみたい博物館の一つでした。本年度より、大学に異動したこともあり、思い切って貴館のホームページのお問い合わせフォームより、メールをお送りさせて頂きました。すると、館長の川崎様より迅速なご返信を頂き、文面には「来館を歓迎します」とありました。
     私は、これまで17年間静岡県浜松市にある私立の中学校・高等学校の社会科の教員として従事し、授業の中でハワイに移り住んだ日本人移民の歴史や背景、現在もハワイに残る日本文化やハワイと日本のハイブリティな文化について生徒たちに語り、授業を行ってきました。私は移民の研究者ではなく、教育学として日本人移民・日系人の方々について、日本の学校教育で推進していくことはできないかと、研究課題をもっていることから、門外漢な私が夢にまで抱いていた『ハワイ移民資料館』に訪問して良いのかと、川﨑館長の返信を頂き、訪問直前までいくらばかりか不安もありました。訪問当日、川﨑館長は、滞在するホテルのロビーまでお迎えに来てくださいました。川﨑館長の第一声は今でも忘れることができません。「お会いすることが楽しみで、待ちきれず早めに来てしまいました」。お約束の時間よりも20分程早かったと記憶しております。本当に貴館の訪問を歓迎してくださっていることが伝わり、訪問前の不安が払拭されました。
     細い坂道をのぼると、すぐに『仁保島村』の看板が見え、さらに奥に進むと赤いポストと共に伝統的木造建築の資料館が観えてきます。資料館に入る前から、歴史を感じ、まるで旧仁保島村に来たかのような錯覚になりました。川﨑館長のご説明によると、現在の資料館のすぐ目の前にセミナールームもリフォーム中であり、仁保島村としての一つの空間が創造されているとも感じました。実際に資料館に入れて頂き、目に飛び込んできたのは、数えきれない程のハワイに渡った日本人移民に関する資料の数々。川﨑館長の資料の収集も現在も進行中とのこと。これだけの多くの資料が一つの場所に収集され、たくさんの人々が観られるように展示されていることは大変貴重なことだと実感しました。私も、これまで国内外の移民に関する博物館・資料館を訪問しましたが、ここまで多くの資料が収集・展示されているのは初めてのことでした。そして何よりも貴館の最大の魅力は、展示資料と来館者の距離が近いことです。一般的な博物館や資料館ならば、頑丈なショーケースに入れられガラス越しに解説文と共に展示資料を見ることが常です。しかし、ハワイ移民資料館では、来館者が興味を示す展示資料一つ一つをガラスケースから取り出し、丁寧に解説をしてくださいます。展示資料と来館者の物的距離の近さもさることながら、ご説明により展示資料と来館者の心的距離の近さも感じることができました。過去に海を渡った日本人移民の歴史が現代の私達にとって身近なものとして捉えることができます。
     日本の学校教育では、日本人移民や日系人について授業で取り上げることは数多くありません。一方、日本ではグローバル化の進展に伴って多文化化も進んでいます。昨今では、多文化共生が様々な地域で叫ばれるようになり、多文化共生社会の構築に向けた取り組みも進んでいます。また、学校教育でも多文化共生が授業実践の中でも取り上げられるようになりました。現代の多文化共生社会における課題を眺める上で、過去に海を渡り海外に移り住んだ日本人移民、そして現在も現地で暮らす彼らの子孫である日系人の人々について学ぶことは、教育的意義としても大きいと考えます。まさに、ハワイ移民資料館は、今後の日本の学校教育に果たす役割は大きいと考えます。
     私も次回は、本学の学生と共に再訪させて頂ければ幸いです。
     川﨑館長のハワイへ渡った日本人移民への熱いパッションを見習いつつ、私も多文化教育・国際理解教育を専門とする研究者及び実践者として、学校教育で日本人移民・日系人についての学び(日系移民学習)が推進されるよう邁進していきます。
     今後とも引き続きよろしくお願い申し上げます。
    
    訪問後には、恩師 森茂岳雄名誉教授とご一緒に懇親会に出席。 広島名物“うどん入りお好み焼”“トマトサワー”。絶品でした。
  • 佐久間 陽央 さま(2022年9月来館)
    明星大学 2年

    先日は突然の連絡にも関わらずご案内していただきありがとうございました。
    全く無知な私に対しても大変丁寧にハワイ移民について教えていただきました。
    教え方が丁寧でわかりやすいため当時のハワイ移民について気になることがどんどん浮かびました。今まで移民のイメージは一家全体の生活面が苦しく、どうにかして生きていかなければならないために移民となることだと想像していましたが、ハワイに移民として働きに出ていた日本人は単なる労働力として雇われていたことを初めて知った分、移民という言葉の意味は一つでないことも知りました。また金銭面に余裕がない、貧しい人々たちがハワイに行って奴隷に近いかたちで働いているのではなく、ある程度の元の生活面で余裕がある家庭の父親またはその長男が日本で働くことが難しいために、兵役と似た条件で満たした人がハワイに移民として働きに行っていて、一定期間が経ったら帰国できるということも、移民というジャンルにくくられることも始めて知りました。
    広島に行く機会があればまた訪問させていただきたく思っております。

    ハワイ移民は「出稼渡航審査」に合格することが絶対条件であったことや、外務省が細かく注意点を示していたことがよくわかる資料です。
  • わが国を代表する国際総合通信社である共同通信社の取材を受けました。
    今回の「来館者の声」はその記者のインタビューです。
    
    

    取材する、新聞記者を取材する

    Ozaku Mayo 記者

    (小作 真世)

    【共同通信社が広島にあるとは】

     一般の方は「世界中で取材活動を展開」というイメージをお持ちですが、国内47都道府県(北海道は3支局)、海外41都市に拠点を置き取材活動をしています。 成果の記事や写真・映像・通信関連のデータは国内外の新聞・ラジオ・テレビ・官公庁・駐日海外公館などに、日本語のみならず英語・中国語など多言語で配信しています。 社員の総数は1600人あまり、広島支局は7人体制です。

    【紙面を持たない新聞社でもあるわけですね。 新聞記者になった動機と、将来の抱負をお聞かせください。】

     高校生の頃、世界のあらゆることが書かれている新聞に夢中になりました。あるとき、ふと「新聞は出来事を伝えているだけで、世の中はちっとも良くなっていないではないか」と感じてしまいました。その思いを抱えて大学生活を過ごし、進路を考える中で「知る側から伝える側に行って世の中を見てみよう」と決めました。記者5年目になりますが、いまだに伝える側の入口をうろうろしています。初心を忘れずに、ひとびとの気持ちに寄り添い取材を深めていきたいです。

    【広島に2年余り、印象を】

    山に囲まれたところで育ったので、海が近くにあることが新鮮です。広島生活に慣れた今でも、海を目にするたびに嬉しくなります。

    【来館者のみなさんに一言】

     貴重な資料の数々と館長のお話に圧倒されました。時間に余裕をもって訪れることをおすすめします!
    「正確で公正な内外ニュースを取材分析して情報提供する」がモットーの共同通信社。 今後、なお一層の力量を発揮して、世界のトップリーダーになることを期待しています。 「文化も国力」です。
  • 中村 銀華(なかむら ぎんか) さま(2022年7月来館)
    早稲田大学人間科学研究科

    広島駅からJR呉線で二つ目の駅、向洋で下車し、歩いてハワイ移民資料館に向かいました。ハワイ移民資料館は、大通りから古風な家々の間の細くて急な坂道をすり抜けて登って行くと赤い郵便ポストが見えてきて、とても趣のある雰囲気の中にありました。
    
     私はハワイ島パホアの日本人移民に興味を持ち調べていますが、ハワイ移民資料館内は、工夫を凝らしてわかりやすく見やすく様々なハワイ日本人移民に関する資料が展示されており、館長から丁寧にご説明いただきました。
     
     ハワイ移民資料館の中には、本物の柳行李や、ハワイから持ち帰った大きなトランク、電気が通っていなかった当時、台所や居間で使用されたオイルランプ、木綿の作業着などのしわを伸ばすために使った鉄製の熨(ひのし/炭火アイロンのこと)、ハワイで写真結婚の花嫁の到着を待ちながら、花嫁の力仕事を思って作られた取手のついた漬け物石などがあり、このような現物を目の前にし、戦前のハワイでの出稼ぎ移民の生活や思いが目に浮かび、今もまだ興奮が冷めません。
    
     また、ハワイへの移民が制限された中での写真結婚のために、日本の母親からハワイの息子へ送られた花嫁の実物の写真の裏書きに、「コレヲモチテ ムカイニデナサイ」ということづけには、日本の母がハワイで暮らす息子を思う気持ちを想像してジンときてしまいました。
    
     呼び寄せ移民の資料については、兄の呼び寄せによって弟が渡航し(渡航許可証)、弟は写真結婚で妻を呼び寄せし(婚姻届認証謄本、渡航許可証)、子供が生まれ(出生証明書)、子供が成人してアメリカ合衆国沿岸警備隊に入隊し(証明書)、その事を母が新聞に広告を出した事の一連の資料が、別々に収集したはずなのに、全てが繋がっていた事などを館長から伺い、また他にも、色々な繋がりが見て取れる資料が整理されていて不思議な縁を感じました。
    
     実際に聞かせていただいた移民の方が歌ったホレホレ節や盆ダンスの祭囃子も、歌い手の方や盆ダンスの情景が目に浮かびました。
    
     事前に読ませていただいた川﨑館長が書かれた「ハワイ日本人移民史」は、館長が集められた膨大で確かな資料の中から、ハワイの戦前の歴史を俯瞰的にまとめられており、ハワイの日本人移民の大きな流れを理解することができました。
    
    ハワイ移民資料館内は、ふとした所にガラスやブリキでできた洗濯板や、トークンが隠れていたり、足元に貴重な資料がそっと整理されていたりと宝物探しのようで楽しく、また多くの貴重な資料は1週間、いや1ヶ月泊まり込んで読んでみたいものばかりでした。
    またお伺いさせていただきたいと思います。
  • 番匠 健一 さま(2022年7月来館)
    広島国際学院大学 准教授

    ハワイ移民の生活文化・家族史から生き方を学ぶ
     広島国際学院大学の情報文化学部現代社会学科の授業「フィールドワーク入門」で4人の学生と一緒に訪れました。向洋駅に13時に集合した頃には真夏の日差しで、既に汗が止まりません。マツダ本社の広島工場のあいだをぬけて仁保橋を渡りました。信号を渡らず南に向かったため、歩道のない国道沿いを歩く羽目になりました。仁保3丁目のセブンイレブンを目印に住宅地に入っていくと、歴史を感じさせる家が並ぶ坂の上に資料館はありました。  私たちは、館長の川崎壽さんから質疑応答も含めて3時間半にわたってお話を伺うことができました。 大まかな内容は①仁保島村の地域史、②ハワイ移民史の概略、③川崎さんの個人史・家族史、④ハワイ移民の生活文化、についてでした。後ほどニュースレターを読ませていただいたところ、もともと生活資料館として始まった経緯があり、生活文化や生活を支える道具類などに視点が定められていることがわかりました。学生たちは全員広島出身ですが、仁保島地域については全く知らないため、小学校社会科教材「わたしたちの町、広島市」(生活資料館仁保島村発行)を参考に地域の歴史について教えていただきました。地名に「島」がついている通り、もともと黄金山を中心とする島でしたが、17~18世紀にかけて新田開発のため埋め立てられて経緯があります。かつて伊能忠敬が測量のため当地を訪れたときの絵図は圧巻でした。  川崎さんご自身は横浜生まれ広島育ちですが、『ハワイ日本人移民史』(川崎壽著、2020年)の序にも書かれているハワイと日本を行き来した父親や姉など家族の移民としての生き方を尊敬しておられることが伝わってきました。原爆投下後の広島で、仁保島周辺はハワイや北米の親族から送られてくる物資が豊富にあったこと。ツールレイクに強制収容されていた姉夫婦が戦後帰国したのち、義兄は通訳兼運転手、姉は将校食堂の賄い、その娘は東京GHQのPXに勤めたこと。広島にいた二世の従姉妹はABCCで通訳を務めていたお話など興味深く聞かせていただきました。移民1世、そしてアメリカ市民でもある移民2世は、戦争前後のどのタイミングでどちらの国にいるのかがその後の運命の大きな分岐点になります。太平洋戦争をはさむ大きな歴史の流れのなかで、日本の本家と移民家族の戦略・選択と個人意志がその後の生き方にどうつながったのかという点は、現代に生きる私たちから見ても学ぶべき点が多い。 フィールドワークの帰り道にいただいたニュースレター「にほしま」11号をひらくと、イワオ・モトヤマ(元山巌男)のエピソードが目に入った。日本留学をしていたハワイ移民二世が日本で徴兵され、そのことがアメリカ国籍離脱の意志として戦後にハワイに帰れなくなったようだ。呉の進駐軍司令部で通訳をしながら、同じキャンプの食堂で出会ったタイピストの女性と結婚しようとしたときに、ハワイの両親から「日本国籍のまま結婚すると永久にアメリカ人に戻れない」と手紙が来て、両親が市民権回復の訴訟を起こす。1950年に裁判は勝訴し、日本滞在中に徴兵された2300人、戦後初の総選挙に投票して日本国籍者とみなされた2700人、合計5000人のアメリカ市民権喪失者たちは1954年のワトキンス法によって市民権を回復したとのこと。ハワイやアメリカ本土で日系人部隊に志願しヨーロッパ戦線に送られた人々や強制収容所の『ノーノーボーイ』の経験と、太平洋の西側で徴兵された若者たちの経験をつなげて、日本の戦後を生きる私たちが見落としていたことを考えたい。
  • 平城 智恵子 さま(2022年6月来館)
    筑豊女性アーカイブズをつくる会 代表

    誰もが故郷をなつかしく想う場所「仁保島村」 
    「ハワイ移民資料館 仁保島村」は、「いますぐにも行くべきミュージアム」です。その理由を二つの視点からご紹介します。 1、 テーマが絞り込まれていること。 「移民県・広島」。この言葉は、現在広島市の小学校で教わり、一般にはよく知られています。それでは、「広島から『ハワイ』への移民について知っていますか」と問えばどうでしょうか。多分、正答はなかなか難しいことでしょう。それは、広島市には公立の博物館が無く、「広島ハワイ移民」について気軽に尋ねたり、調べたりすることができないからです。「移民」という言葉は、日本で生まれて、仕事を求めて海外に渡った人々を一括りにする言葉です。しかし、その言葉のなかには、出身地、渡航国、就労先、帰国後の生活など、それぞれ異なった一人一人の生身の人間が存在しています。ここ「仁保島村」には、「ハワイ移民」一人一人の足跡に深く踏み込む資料がふんだんに収集されており、移民者たちと来館者がリアルに巡り合うことができます。「広島からのハワイ移民」について、博物館では得られない情報と資料のかずかずが、この小さな私設資料館には、たっぷり詰め込まれていて、運良くここにたどり着いた方は、無料で全てが理解できるようになることでしょう。 2、資料展示方法が魅力的であること。 この資料館は、広島市南区の黄金山のふもと、(株)マツダの自動車工場が立ち並ぶ府中町と広島市をへだてる猿猴川の河口をのぞむ小高い丘にあります。黄金山はもともと広島湾に浮かぶ「仁保島」であり、この資料館の周辺にも、瀬戸内の島特有の迷路のような坂道が張り巡らされています。資料館にとって「場」はとても大切な要素です。ハワイから祖先の故郷を訪ねてくる方々にとって、当時の環境に近い風景が残されている地域で、当時の資料に触れられることは重要なことです。 さらに資料館内部に入ると、展示什器に工夫が凝らされていることに驚きます。子どもにもよく見えるような高さの文書資料陳列ケースから、生活資料等の小型の展示ケースに至るまで、館長みずから、ピッタリのサイズで手づくりされています。照明も非常に工夫されており、展示物がよりドラマチックに見やすくなっています。 加えて、資料館として活用されている「土蔵」は立地もよく、紫外線から遮断され、通風換気も程よく保たれており、良質の資料保存環境です。修繕・維持・活用される館長のポリシーと技術の結集ともいえます。そして、資料の解説については、館長自ら、難解な歴史用語をなるべく避け、若者にもわかりやすく説明されます。
    以上、同館訪問はまだ2回の私ですが、民衆史料の保存に興味を持ち、あちこちの私設・公設の博物館・資料館等を歴訪した経験から、「今すぐにも行くべきミュージアム」としてレポートさせていただきました。 館長の提言される「One town One museum」に深く共鳴し、この「ハワイ移民資料館 仁保島村」のますますの発展を心より願っております。
  • 山本 恵理 さま(2022年2月来館)
    神戸市外国語大学 国際関係学科

    広島市内殆どの資料館・博物館がまん延防止等重点措置の延長に伴い休館する中、地図アプリ上でヒットした「ハワイ移民資料館」。たまたま私が卒業論文でイタリアへの移民予備軍とされるイラン人留学生集団について調査したことがあり、移民の存在に興味を持っていたため、資料館を訪ねることとなりました。
     まずこの資料館で私が感じたことは、人々の国境を超える移動の歴史とは、移民個人がもつ様々な背景と送出国・受入国が持つ国家間関係によって実現し、一概に語り尽くすことができないものである、ということです。恥ずかしながら私はハワイの日系移民に対する知識が乏しく、明治から移民の動きが始まったことや広島から沢山の日本人がハワイへと出発したことすら知りませんでした。しかし、多くの資料や当時の移民の方々の私物、そして何より川崎様の語りによって、まだまだ断片的ではありますがハワイ移民について学ぶことができたと感じております。様々な思いを抱きながら異国の地へと働きにでかけ懸命に働く移民たちの姿が、そして国家の一員であったがために戦争に巻き込まれるも、不条理な世の中に屈することなくハワイで居場所を構築した彼らの姿が、鮮明に見えた気がします。加えて、日系人の存在が広島・日本とハワイの精神的な繋がりを実現させている点についても非常に尊いものであると感じました。
     Lastly, I want to mention the current immigration issues. As many people know, Japan started to accept a lot of foreign workers several years ago and we can find various kinds of news every day especially about technical intern trainees from Asian countries(sadly most of them are about those workers got physically abused by Japanese or the death at an immigration facility in Nagoya). By visiting this museum, I felt that the history of the Japanese in Hawaii and the immigration issues which Japan is facing can be considered something of the same kind. Anti-immigration sentiment is growing in Japan and this makes people xenophobia and sometimes do hate crime. However, I believe there is still a way to avoid those conflicts in a peaceful way by leaning Japanese immigrants living in Hawaii, Brazil and etc. Look at those people, how strongly they lived and tried so hard to make their “home”. Every immigrant has his/her stories and I want to listen to their backgrounds always.
  • 小川 博之 さま(2021年11月来館)

    「明治元年から、日本より海外に移民を行った人たちがいた。しかもハワイに移民した日本人のなかでも広島県出身者が一番多かった。」という事を知ったのは、令和2年(西暦2020)の秋のことでした。
    私は、広島県福山市出身、現在50歳の現役の社会人大学生(通信制)です。このような広島県民にとって大変大切なことを地元の小学校~中学校でこのことについて学ぶことが一切なく、この年齢になって埼玉県所沢市にある大学での講義を通じてこの事を知ったのです。(早稲田大学人間科学部『アメリカ地域研究』:森本豊富 教授)今から10年くらい前、『日系442部隊 アメリカ史上最強の陸軍』という映画が公開され大変話題をよびました。そういうことから、日系人で組織された米陸軍部隊の存在を知っていました。しかし、それは明治末期から大正くらいに移民として海外に移住した日本人なのではないか?という憶測があった程度で、それ以上の関心には至りませんでした。
    何故かというと、明治末期には石炭を燃料とした「船」がありました。渡航費用は大変高額であったのではないかと予想されますが、そういう交通手段がありました。また、明治時代以降、海外のモノに触れる機会が増え、海外に対して憧れや希望を持つ人達が数多くいたのではないかと思ったからです。当然お金儲け(ビッグビジネス)を考えた人もいるでしょう。これはお金儲けを批判しているのではありません。
    
    江戸時代が孝明天皇の崩御で約260年の幕を閉じ、祐宮睦仁親王殿下が第122代天皇の御位に即位遊ばされたことで「明治」が始まります。
    そんな、新しい時代の始まりを寿ぐ時に「どんな理由や事情で国外に新しい生活を求めたのか?」その真意を知りたくなりました。
    大学の講義の中で、神戸市、山口県大島郡、広島市の移民に関する資料館が紹介されたので『ハワイ移民資料館 仁保村』の詳細をインターネットで調べ、大学の夏休みを利用して訪れました。
    余談ではありますが、私は数年前まで、この資料館の目と鼻の先にある車両メーカーの「マツダ株式会社」で期間社員として働いていたのですが、この資料館の存在を知りませんでした。
    
    川崎館長自らのご案内により資料館に入館いたしました。
    ここで、私がこの資料館に入館するにあたり、深く注目しようと思ったことは、「広島県とハワイとのつながり」、「大東亜戦争(いわゆる“太平洋戦争”)と日系人」そして、私たち日本人が一番大切にしている「天皇陛下とハワイに住んでいる人達との絆」の3点でした。この、私が知りたい情報は、川崎館長が集められた資料から沢山見つかりました。
    そんな中で、私が特に注目したのは、昭和16年(西暦1941)12月8日(日本時間は12月9日)に発行された『布哇報知』の社説でした。
    
    
    真珠湾攻撃に端を発したということになっている「大東亜戦争」ですが、元々大日本帝国政府の基本方針はアメリカに対して先制攻撃を仕掛けることではありませんでした。
    政府の基本方針は、自存自衛を確立するためにイギリスの植民地になっているインドを独立させる事(イギリスをインドから追い出してインドが独立することによってイギリス本国と中華民国に支援物資の輸送ができなくなります)、欧米が植民地にしている東南アジアの資源を確保することでした。
    「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」(昭和16年11月15日・大本営政府連絡会議決定) 内容はこちらから
    対アメリカに関してはアメリカ領であるフィリピンを独立させることです。もし、このことでアメリカが出てきたら連合艦隊によって艦隊決戦をすることになっておりました。 このような政府や帝国海軍の基本方針を無視して、ハワイに住んでいる日系人や日本人を肉体的にも精神的にも傷つけ歪める要因を作ったのは何なのか?そしてそれを仕掛けたのは一体誰なのか? 対米開戦を止めることは出来なかったのか?日本から自分たちの家族や親族をハワイに送り出した人たちは一体何を思ったのか? 何故、日本のマスコミは戦争をするように国民を煽ったのか? どうして希望を持って海外に移り住んだ元同胞までもが深い悲しみに引きずりこまれなければならなかったのか?等々。 考え始めるときりがありません。 この度、この資料館にお邪魔してこの新聞を見つけたことにより、ハワイに住んでいる当時の日系人の方々が日本とアメリカとの板挟みになりながらも、アメリカ軍として戦うための悲しみと忍耐の覚悟をしなければならなかったという事実の一端を学ぶことが出来ました。 そしてそのような状況に陥りながらも彼らは「日本人としての矜持」も忘れることはありませんでした。 その証拠が、私が写真で手にしている『教育勅語』(乃木希典陸軍大将 揮毫)の存在でした。 彼らは、日本とアメリカの関係が変になっても『教育勅語』の教えを大切にしていました。尊いことです。 以上のように、この「ハワイ移民資料館 仁保島村」には、1つの資料から、館長とともに色んなことを考え議論することが出来る大変貴重な資料が多数展示されています。私は、今後、この資料館にお邪魔して、明治元年から始まった移民についてじっくり調べていきたいと思います。 皆様も是非一度「ハワイ移民資料館仁保島村」に足を運んで私たちの先人の足跡を知って頂ければ幸いに存じます。
  • 山中 祐子 さま(2021年9月来館)

    はじめに
    
    私の母方の親戚のほとんどがハワイ在住です。幼い頃はそのことに何の疑問も持たずに過ごしてきました。成長するにつれ何か疑問を感じるようになり、周りの人に尋ねて初めてハワイの親戚の人たちが移民であることを知りました。
    しかし、なぜ彼らがハワイ移民になったのか、そして現在の生活基盤をどうやって築いてきたのかなどについて、興味を持たずにおりました。ハワイとは、親戚がいる「青い空と、青い海が広がる観光地」であるというくらいにしか捉えておりませんでした。
    
    ところが、オアフ島のホノウリウリという収容所の発掘が進んできているというニュースを知り、親戚を含めた日系人が戦争中にどのような立場におかれ、どのような苦労をしたのかを知りたくなりました。
    
    そこで私は大学の非常勤講師をする傍らで、大学が春休みになる時期には毎年ハワイを訪れて移民の歴史などを調べるようになりました。
    
    そんな中、2021年8月30日の新聞(朝日新聞)に「ハワイ移民資料館」の記事が載り、広島という身近なところに資料館があることを知りました。
    
    (2)ハワイ移民資料館「仁保島村」との出会い 最初にこちらを訪れる時、場所が判らなくて奥様に途中の道路までわざわざ迎えに来て頂いたことが忘れられません。 そして、急な坂道を登って、たどりついた館内に入ると、左手には数々の柳行李が、「ようこそ」と言ってくれているように展示してあります。それらの行李の装丁ひとつひとつに深い意味があることを知りました。また、館内の写真資料と数々の歴史を語る書類(複製ではなく本物)、そしてハワイのサトウキビの袋、それにあまたの実物資料、関係書籍の多さに圧倒されました。そしてなによりもそれらの資料に基づいて、そのすべてを川﨑館長さんが、一冊の本「ハワイ日本人移民史」にまとめられていることでした。緻密に調べ上げたこの資料の中身の濃さの背後にどれだけのご苦労があったかは想像するに余りあります。(川﨑館長さんによりますと、研究はまだまだ現在進行形で、更に深めていかれるとのことでした) その内容は、私がこれまでに大島の日本ハワイ移民資料館、日本銀行広島支店跡などで催された移民の歴史を辿る展示会などで見てきた単なる表層の歴史資料とは一味違う深層をえぐるものでした。 そしてそれらの説明を、館長さんが「自分が当事者であったかのような具体的で熱意溢れる説明」を、冗談を交えながら楽しくして話して下さり、当時の時代風景を感じることができました。(熱が入ると早口でいらっしゃり、コロナの為にマスク越しでもありましたし、お言葉についていくのに精いっぱいでした。(笑)) 個人でこれだけのものを集める労力、費用、人と交渉を重ねた時間と精神的ご苦労は並大抵のものではなかったことだろうと思い致しております。 資料のいくつかを紹介しますと、当時の実物のパスポート,日本への手紙、移民の人たちが働いていた鉄道建設工事現場の風景写真,ハワイにおける日本文化の流行を示す数々の資料,プランテーションで働く人たちが首から下げる「バンゴウ」と呼ばれるもの(当時プランテーションで働く人は、名前で呼ばれずに、番号で呼ばれており、その番号を首から下げていました)等があり、史実の一端を実物資料で展示しているという当時の状況を実感できる資料館でした。 このハワイ移民資料館「仁保島村」は日本におけるハワイ移民史の資料館として他に類をみないものになっていくことは間違いないと感じられました。 ハワイ移民史はどんなものかを知りたい方には必見の資料館だと確信しています。 最後になりましたが、 2日間にわたり、約4時間もの貴重なお時間を割いて下さいまして本当にありがとうございました。
  • 津村武士 さま(2021年6月来館)
    広島市南区出身

    資料館を訪れたのは、本当の偶然。
    道に迷い、スマホのグーグルマップを見ながら歩いていると、”ハワイ移民資料館仁保島村”なる文字が目に入ってきたので、面白そうなのでフラッと訪ねました。 こんな民家が密集している中に資料館があるはずがない!と思いながらスマホを見ながら歩くと、看板が有りました。日曜だったので、近所の方にこの資料館はやっているのか?と聞くと、あまり見かけない私がうろうろしていたせいか、ずっと怪しげな目をしながらも資料館へ案内してくれました。
    移民については最近まで全く詳しくなかったです。学校でも詳しく教えてもらった記憶がありません。日本の歴史の教科書は薄っぺらく、受験の為の歴史教育では学生時代に興味を持つはずもありません。たまたま広島市の歴史の本を読んで、この仁保から海外へ働きに出た人が多かった!と思いがけず知った事で、この資料館へ来たとも感じます。人生の出会いとは偶然が重なりあって起こる事かもしれません。
    さて、実際の移民の資料館については、館長からなぜ日本人がハワイに移民したのか?、異国の地でどう稼ぎ、どう生活していたのか?実際に移民の方々が使用していた道具や、資料を交えて説明頂きました。本の中の写真より、実物はリアリティーがあります。これだけの展示物を集めた館長はハワイの昔の品々を集めるコレクター、現代風に言えばハワイオタクと言わざるを得ません。これら沢山の展示物は、戦後から随分経って生まれた私には、見た事が無い、テレビで見たものも多く、さらにレトロなデザインのモノはお洒落で好奇心を大いにそそりました。周りの年配の方々も戦後生まれの人が多く、館長のような詳しい知識を持った方も珍しいので、大変貴重な経験をさせて頂きました。2時間がアッという間に経ちました。
    物事には始まりが有り、ハワイ移民にも始まりがある、移民の始まりについて知りえた事が、一番印象的な出来事でした。浅かった私の移民に関する知識が少し深まったと感じます。
    津村 さま
  • Rev. Joy Shingo Okamoto さま(2021年3月来館)
    ハワイ生まれ。ハワイで仏教(浄土真宗)の開教使となり帰国。

    周防大島の日本ハワイ移民資料館を訪ねる過程で仁保島村を知りました。
    事前に電話で訪館したい旨を伝えると快諾。当日は川﨑館長から多くの話を聞くことができました。
    仁保島村は貴重な「本物」(コピー、複写ではないという意味です)を残している資料館です。そして仁保島村を訪れるなら、川﨑館長の話をじっくり聞いてください。大島の資料館は「見る」資料館、仁保島村は「聞く」資料館という印象を受けました。現地でも見たことのない歴史的資料が残されており、川﨑館長はその資料と歴史についてお話しくださいました。懐かしいと思うものもありましたが、こんなものがあったのだ、という驚きもありました。特に、ハワイの鉄道で使われていたトークンの現物には興奮しました。 私自身がハワイ生まれのいわゆる日系二世で、近年までハワイで仕事をしていたのですが、川﨑館長著の『ハワイ日本人移民史』と資料館からは多くのことを新たに学ぶことができました。日本人がどうして労働力としてハワイへ渡ったのか、その生活はどうであったか、帰ってきた人々はどうであったか等々、お話を聞いているとあっという間に時間が過ぎてしまいました。
    ハワイのことは好きで何度も行ったことがあるけど、日本人移民やその歴史のことを知らないという方は多くいます。少しでも移民の歴史を知ってもらうことによって、ますますハワイに対する気持ちは深まると思いますし、もし仕事やプライベートでハワイに住むことがあるなら、『ハワイ日本人移民史』は必ず目を通していただきたい書物です。
    充実した、楽しい時間を誠にありがとうございました。そして、未だ訪れたことのない方には是非訪館をお勧めします。その時は、最低でも二時間は滞在できる時間を用意されるといいですよ。
  • 石原 匡 さま(2021年4月来館)

    ハワイ移民資料館「仁保島村」との出会いは、私の職場に来られた川崎館長とお話する中で私設の資料館にお誘い頂いた事でした。それまで広島で生まれ育ったものの、ハワイ移民や広島との繋がりについては耳にしたことがなく、心引かれて資料館を訪れました。 
     「仁保島村」は、資料館に一歩入ると当時使われていた品々に囲まれて、まるでハワイに向かう船の中と同じ時間が流れているように感じる程です。ガラスケースの中の展示物と解説を眺める公共の資料館と違い、川崎館長との会話の中で貴重な資料や展示物が続々と登場してくる対話型の資料館だと思いま す。その資料や展示物の一つ一つは川崎館長が自ら集めたものであり、それぞれのストーリーをお聞きするのは時間がいくらあっても足りないくらいでした。個人で資料館を開くということの情熱にとても驚かされました。
    石原 匡 さま

    そしてもう一つ、普段大工として木造住宅の建築に関わっている私は資料館自体の造りに驚かされました。この何十年の間で木造建築は大工が木材に墨をつけ加工した材料を組み上げる「手刻み」と呼ばれるものから、工場でもって加工された材料を組み立てる「プレカット工法」が主流となりました。その中でこの建物はプレカット工法では造ることのできない大きく反ったダイナミックな梁や、仕口といわれる木材と木材を組み合わせる伝統技法がふんだんに使われています。古民家を改築したにしては木材が新しく見え、不思議に思って尋ねてみると、なんと川崎館長自ら木材市に出向いて県産材を選び設計して建てられたとの事でした。川崎館長のハワイ移民についての歴史はもちろん、伝統建築についても熱意とこだわりに触れられた大変貴重な時間となりました。
     そのようなお話を伺う中で、資料館の看板を作ってみないかとご提案頂き喜んでお受けしました。もともとつけていた木製の看板を資料館に到る道沿いに設置したいとの事でした。川崎館長のアドバイスを受けながら、かつて江戸の町を彩った呉服屋の立て看板をイメージした造りにしました。
    石原 匡 さま

    屋根と柱には素晴らしい資料館の景観に寄り添うように、古くから日本の建築を支えてきた檜を使用しています。今は新しい白木の状態ですが経年変化で落ち着いた色味になるのが楽しみです。  柱からつきだした屋根を支える腕木には、資料館の裏手にある黄金山に自生するシュロの木を使用しています。かつては広島の漁師が使うロープや生活用品としてたわしやほうきの原材料となったシュロの木は、木材としては硬すぎず粘りがあり、枝がなく幹は直立して成長する為、お寺の鐘をつく撞木として重用されているそうです。初めて使用しましたが鋸で切った断面は滑らかで手触りが良く、皮の残ったシュロの木の野性味は檜の上品さの中で良いアクセントとなりました。  大工仕事も木材に触れる機会が減っていく中で、川崎館長と出会いこのようなお話を頂けてとても感謝しています。
    石原 匡 さま
  • 孝田恵子 さま(2020年10月来館)

    Aloha!
    昨日は、こうだfamily、にしむらfamilyがお世話になりました。
    とても貴重なたくさん資料に感動しました。
    こどもたちも興味を持ってみていました。ありがとうございます。
    ハワイ移民の歴史を知ることでますます、ハワイを近く深い目線でみることができます。
    こどもたちにもそのきっかけやチャンスを与えてくださってありがたく思います。
    また、川﨑館長さんのひとつのことを突き詰めて調べ、学んで、伝えるお姿にとても勉強させられます。買わせていただいた「ハワイ日本人移民史」を読ませていただいてから改めてうかがってまた説明を聞かせていただきたいです。
    Big Mahalo!
    
    孝田恵子
  • 西田聖和 さま(2020年9月来館)

    これまで国内外多くの博物館や資料館へ行ったが、仁保島資料館を訪問して、良い博物館とは何かを改めて考えさせられた。あくまで私の考えだが、それは博物館の規模や展示品がどれだけ貴重かというよりも、むしろ「伝えようとする熱意」だと思う。
    
    川﨑館長の熱意はすごかった。もはや全国でも稀に見る熱血館長である。資料館の規模こそ、こじんまりとしたものだが、そこには館長の熱意が膨大に詰まっていた。だから数時間いても飽きない。むしろ、数時間では足りないということに気づかされる。
    
    私は広島生まれだが、広島に長らく住んでいたというわけではない。広島に暮らす祖父母を毎年訪ねるぐらいである。自分が日系だとか、身内に移民がいるとかいうわけではない。この博物館のテーマである移民やハワイなどに、何一つかすりもしない人間である。
    
    「移民」というテーマに興味を持ったのは、留学や仕事でイスラエルやドバイなど移民が多い国で暮らしたことがきっかけである。特にドバイは、人口の8割が外国人である。その多くは、インドやフィリピンなどからやってきた外国人労働者である。
    
    そんな彼らと暮らすうちに、日本もかつて移民を輩出していた歴史があることを知った。移民となるのは他国の人とばかり思っていたが、かつての日本もそうだったのか、と気づかされた。さらに、「広島はかつて移民の数が最も多かった県」という祖父の何気ない一言で、「広島の移民」に興味を持った。
    
    私のリサーチ力不足かもしれないが、ネットでは「なぜ広島の移民が多かったのか」に対する答えは多くない。ところが、熱血館長こと川﨑館長の手にかかれば、あふれんばかりの答えをいただくことができた。しかも、「ハワイ日本人移民史」というさらに膨大かつ知られざる歴史の”おみやげ”付きである。
    
    展示物は多くを語らない。むしろ、訪問者に熱心に訴えかけるのは、語り手なのである。語り手なくては、展示物も活かされない。熱血館長の語りに耳を傾けながら、そんなことを思った。
    
    西田聖和
  • 田妻俊也・励子 さま(2020年7月来館)

    仁保に住まいはあるものの、広島県外で育って現在は横浜市在住です。7月に夫婦ではじめて訪問させていただきました。
    
    資料館が開館したのは20年以上前との事ですが、それ以前から何度も仁保には訪れていたにもかかわらず、 今回初めてハワイ移民に関する資料館が仁保町内にあることを知り、早速おうかがいしました。 とても個人で収集されたとは思えない情報量と、細やかなファイリング、趣のある建物の中の工夫された空間や展示による演出、次から次へとあふれる資料に驚かされました。。。 そして勤勉な日本人の気質が、新地(ハワイ)でも大活躍に結びつき、得るものや与えるものの多くが両者の実りにつながったことが良くわかりました。 
    
    川崎館長が上梓された「ハワイ日本人移民史」やいただいた印刷物は横浜に帰ってからゆっくり拝見させていただいているところですが、大変貴重な資料満載で、例えば戦前のハワイ社会において日本人労働者が重要な役割を担っていた事や、日本らしい倫理観を重視した教育を子供達に施す努力が重ねられた事、ハワイ王朝のカイウラニ王女と日本の皇族との縁談の顛末、太平洋のおける海底電線網の敷設構想など、戦後の一般的な情報環境下では触れる事が難しかった、戦前の生きた情報が含まれている事にも大きな意義を感じます。それは、日本人が伝統的に育んできた精神が育つ環境下においては日本人が世界で重要な役割を担える事が感じられるものであって、それは別の切り口からは日本の教育原理であった「修身」をもとに編纂された本が米国のレーガン大統領政権下で「The Book of Virtus(道徳読本)」という名の本で出版され、米国の教育改革に役立てられ、ベストセラーになったという逸話にも関連付けて考えてしまいます。
     
    私たちもハワイには何度か渡航した事があるのですが、ホノルルのあるオアフ島は騒がしい感じがするので、あまり滞在した事がありません。主にマウイ島で滞在する事が多いのですが、日本人旅行客が少ない反面、現地にお住いの日系人が多い事を不思議に思っていましたが、今回資料館にお伺いして理由がわかりました。また、私自身はあまり現地の日系の方とお話しした事はないのですが、私の先輩がお世話になっている方でマウイ島のキヘイという土地にお住いの方がやはり広島にルーツのある方だと聞いています。ですので、今度その方にぜひともこの「ハワイ日本人移民史」をご覧になっていただきたいと思いましたが、その方の奥さんはマウイのホテルで日本人対応をされている方で、日本語はお得意なのですが、旦那さんは日本語をお話にならないそうなので、英語訳版の出版が期待されます。川崎館長におうかがいしたところ、実は英訳の準備は進んでいて、翻訳は今回の日本語版の編纂にもご協力された、スタンフォード大学の方の手を借りて行われるとの事のようです。
    
    話はそれてしまいますが、これがいかに興味深いお話であるかをご紹介する上でも、このスタンフォード大学について少し書かせていただきたいと思います。
    
    スタンフォード大学は米国の西部開拓時代に鉄道事業で財をなしたスタンフォードが私財を投じて設立した全米屈指の大学で、米国のIT産業の中心であるシリコンバレーの発祥の地と言われていて、米国では過去のゴールドラッシュや今では廃れてしまった鉄道事業の成功がIT産業隆盛という形で現代にまで引き継がれているという点で引き合いに出される事が多いようですが、その事とは直接関係ないお話をさせていただきます。
    
    今回、日本語版の編纂に参加された上田薫氏はスタンフォード大学のフーヴァー研究所に所属されておられる方のようですが、フーヴァー研究所には正式にはフーヴァー戦争・革命・平和研究所(Hoover Institution on War, Revolution and Peace)という名称がついていて、その公文書館(Hoover Archives)には、膨大な史料が保管されており、毎年多くの研究者が調査に訪れ、隠されていた歴史に日の光を当てているそうで、上田薫氏もその一員として活動されている方とお見受けします。「フランス革命について研究するのが難しい。なぜなら、当時の記録や時事問題の資料が散逸しているからだ。」という先達の言葉を読んだフーヴァー元米国大統領が「平和の維持には、戦争の研究が欠かせない。」という信念の元、こういった史料を集める事になった経緯は次の記事で語られているのでご参照いただければ幸いです。
    →記事はこちらから
    
    この記事でも語られている通り、公文書館には日本の貴重な史料も保管されているとの事で、川崎館長の集められた資料はどれも生きた第一次資料である事から、フーヴァー研究所としてもそれを評価しているものと推察されます。そもそも日本の史料は戦前・戦中に発行されたものはなかなか入手できなくなっていて、国立国会図書館に保存されているものを、検索して見るか、民間で保管されているものを見つけだすしか方法がないこともあまり知られていない事実です。
    
    その経緯については「国民の歴史」など事実として信じられる歴史を解き明かす本をいくつも編纂されている西尾幹二先生の調査によれば、戦争直後はGHQにより「宣伝用刊行物没収官」に任命された大学や役人で構成されたメンバーによって、史料の徹底した蒐集が行われ、集められた史料はワシントンDCの近くにあるメリーランド大学にプランゲ文庫として保管されたり、米国議会図書館にワシントン・ドキュメント・センター経由で移管されたりしていました。所謂GHQによる日本の歴史の消去として語られている行為があったとの事なのですが、戦後数年が経過したのち、時代が米ソ冷戦下に移って、GHQとしてではなく米国単体の方針転換もあった影響だと思いますが、一部の史料は日本に返還され、今では防衛省や国立国会図書館に所蔵されているようですし、米国議会図書館所蔵の没収史料も90年代には目録化が進んでいる事がわかっています。その後残りの史料が返還されたかというとそうでもなさそうなのですが、昨今では米国側から真実の歴史を語りかける書籍やTV番組が発表されているとも聞いていますので、もはや史料の返還を拒む意味合いは薄れているようにも感じられます。
    
    だいぶそれた話が長くなってしまいましたが、川崎館長のご苦労がいかほどのものであったかは、この時代の生きた情報の収集がいかに難しいかという事情の理解なしでは語り尽くせないものでしょうし、そんな中でも館長のような執念があればそのような事が可能な時代になった事を証明していただいた事に感謝したいという衝動にかられた結果ですのでご容赦ください。最後に、資料館に原本が保管されている、広島平和記念公園の碑文の通り「過ちを繰返さず」平和を守りつづけるためには、歴史の本質を客観的に解明する事も大切であるという信念のもと活動される国内外の方々の今後の益々のご活躍を期待しつつ、筆を置かせていただきます。
    
    田妻俊也・励子
  • 廿日市市宮内市民センター所長 新見忠昭 さま(2020年2月27日来館)

    「ハワイ日本人移民史」を読んで
    
    ハワイ移民資料館 仁保島村を伺ったのが、2020年2月27日でした。このことがこの本を知るきっかけとなりました。
    その日、突然の連絡にも快く応対してくださり、閉館時間を超えてまで懇切丁寧にハワイ移民について教えてくださいました。話の中で、3月末にはこれまで蓄積してきた全てのものを集大成した本を出版するとの話を聞き、出版後はすぐに書店で買おうを思っていました。
    3月31日に川崎さんに電話して、取り扱い書店を聞こうとしたら、「あなたが購入者第1号だから私から直接郵送してあげる」と言ってくださり大変うれしく思いました。
    4月2日には手元に本が届き、早速読み始め2週間しないうちに読破しました。充実した内容に引きつけられ、仕事の合間に読むのが惜しいくらいでした。
    私は以前、周防大島にドライブしたときに、日本ハワイ移民資料館に行きました。妻の父方も母方もハワイへの移民がいたので少なからず興味がありその資料館に行きました。そこでの資料の豊富さに驚きました。資料館の方と話をしているうちに、「仁保島村」の小冊子や仁保島村資料館のことについて教えていただいたことが「ハワイ移民資料館 仁保島村」を訪れるきっかけとなりました。
    手元にきた本はとても詳しくまとめられており、これまでに、2019年がハワイへの日本人移民150周年として、国立歴史民俗資料館企画展での冊子「ハワイ ~日本人移民の150年と憧れの島のなりたち~」も手元に取り寄せ読んでいたので、川崎さんのまとめられた本がどれだけ多くの資料がつまったものかよく分かりました。またこの本は、単に読み物としてもおもしろいのですが、元年者から帰化権獲得までの歴史について区分をつけて章立てしてあり、とても見やすく、紹介してある資料の豊富さ、貴重な写真、数字をもとに分かりやすい表やグラフがあり、ハワイへの移民の歴史やその当時の様子の変遷が見て取れるものになっていました。
     ハワイへの日本人移民に関わる歴史を学び、読んでいる最中に、自分がいつの間にかタイムスリップしたように感じました。妻方の先祖が関わっていた事実も重ねて読んで、とても有意義な時間になりました。たくさんの人に読んでもらいたい一冊です。
     この本に渾身の力を込めて作り上げた川崎さんに心から敬意と感謝を申し上げます。
    
    廿日市市宮内市民センター所長 新見忠昭
  • 県立広島大学 さま(2020年2月7日来館)

    とても冷たい風が吹く2月上旬,あらかじめ部屋を暖め,スリッパを用意いただき,迎え入れていただきました。心より感謝申し上げます。
    
    今回「仁保島村」を訪問させていただいた経緯は,私たちがハワイの広島県人会を訪問するにあたり,事前にハワイ移民のことに関して勉強したいということでした。恥ずかしながら断片的な官製移民の知識しか持っていませんでしたが,移民を決意した当時の一人ひとりの思いを感じられる非常に有意義な時間となりました。
    
    2021年4月に広島県立の新大学が開学します(叡啓大学(仮称)/設置認可申請中)。リベラルアーツやデジタルリテラシー(ICT,データサイエンス等),思考系に関する英語での「修得」と,実社会のフィールドでの課題解決演習や国内外での体験・実践プログラムを通じた「実践」の繰り返しにより,これからの世界を切り開き生き抜いていく人材を育成する,非常に挑戦的なプログラムを用意しています。2割の学生を海外から迎え入れる計画(留学生)としており,ぜひ広島にルーツを持つ世界中の日系人の学生も一緒に学んでほしいと思っています。
    
    こういった思いから,広島からの最初の移民先であるハワイを訪れることを決め,いろいろ調べる中で「仁保島村」のことを知りました。電話での訪問の問い合わせの際から,非常にウェルカムな雰囲気で,訪問当日はハワイでのプランテーションの歴史から,当時の広島の生活環境と移民の経緯,実際のハワイでの生活の様子まで,川﨑さんご自身の目や耳で確かめられた情報に基づく情熱的な語りにどんどん惹き込まれていきました。展示されている資料も貴重なものばかりで,興奮を隠しきれませんでした。
    
    当時の厳しい環境から新たなフィールドでの挑戦を決意され,ハワイへ出発された方々の高い志と行動力は,これからの時代を生き抜く大きなヒントになると実感しています。まさに「温故知新」であり,未来に向けて果敢に挑戦していくという,当時から広島に根付く「文化」を学ぶことは非常に意義のあることであり,県立広島大学と新大学の学生にもハワイ移民の歴史をぜひ学んでほしいと思いました。
    
    実際にハワイ(ホノルル,ヒロ,コナ)の広島県人会の方々と面会し,4,5世になった今でも広島スピリットを持っていることに誇りを持ちながら,ハワイアンとして暮らされていることがよくわかりました。
    
    川﨑さんのお話を伺ったうえでハワイを訪れることができ,出張も非常に有意義なものとなったと思います。ハワイでのお土産話を持って,また川崎さんの熱い語りをうかがいに行きたいと思います。
    ハワイ訪問の機会がなければ,このような貴重な資料の数々を集められた素晴らしい移民資料館が広島にあることを知りませんでした。ぜひ,多くの方に訪れていただきたいと思います。
    
    県立広島大学
  • 山口 倫太郎 さま(2020年2月20日来館)

    「いやあ、どんなヤツが来るのかと思ったよ。なんでここに来ようと思ったの!?」
    
    そう聞かれたのは、館長の川崎さんから私設の移民資料館について簡単に説明を受けた後のことでした。この資料館を訪れるのは研究者やその教え子の学生が大半だそうで、僕のように「面白そうだ」とフラリと訪ねる人は少ないようです(興味を持たれた方は電話を入れてから訪問しましょう)。
    
    「僕は元プロボクサーだったんですけど、日本ではプロになれない事情があったので、アメリカ、メキシコ、タイ、ドイツで活動したんです。だから各国の民族問題や移民のアインデンティティーの問題に興味があるし、現在日本でも移民の問題が起こっているので、日本からハワイへと移民をした当時の人々に興味を持って」というと、川崎さんは「へー面白いね。ボクシング辞めてどうしたの?」とさらに突っ込んで聞いてくるので「物書きになりたいと思って勉強しようと大学の通信過程に……」「どこの大学?」「慶應の……」「へー凄いじゃない! 面白いなあ、ホームページにレビュー書いてよ! 経歴も含めてさ! そういうの若い子の励みになるんだよ!!」
    
    ……と、「書いてよ!」と言われたので私的な経歴について書かせて頂きました(笑。
    このレビューはそういう奴(僕)が書いたものです。
    
    さて、戦前から始まったハワイへの日本人移民の実情を知らせる為に作られた当資料館の説明に移りましょう。まず驚かされるのは当時の事情を今に伝える豊富な資料の数々です。私設の資料館ですし、正直に言ってそれ程期待していたわけではありません(そもそも無料ですし)。しかし、日本全国、そして日本とハワイを行き来して集めた資料の数々は公共の(そして有料の)歴史資料館の類と比べても目を見張る充実ぶりです。
    
    驚いて「もっとショボいものかと思ってました」と正直に言うと、川崎さんは「そうでしょ~しかも資料は一次資料だよ!資料は一次資料でなきゃ!」と玩具を自慢する子供のように嬉しそうに胸を張ります。そしてその資料の一つ一つには川崎館長の思い入れがあり、それにまつわる移民小噺をしてくれました。
    
    例えば柳行李(荷物を入れるトランク状の木製の木箱)。小さな柳行李は「これだけの荷物で海を渡ったのか!?」と驚かされる程ですが、決して当時の移民達が取り立てて貧しかったわけではなく、渡航の際の荷物に制限があったからなのだそうです(大量の移民がいたわけですから、輸送能力に限界があったのは当然でしょう)。
    
    もう一つ面白かったのは、ハワイへの移民にもそれぞれの出身地による県民性、地域性があったとのこと。僕が福岡出身だというと「福岡や九州出身者は土木なんかに力を発揮したんだよ!」と教えてくれました。聞くと川崎さん自身が移民の親を持つ移民系(お父様が移民1世で、川崎さんのみ日本で生まれ、他の兄弟はハワイで生まれたアメリカ人なのだそうです)であり、この資料館を作った目的の一つは「移民は棄民」という負のイメージの払拭だったそうです。
    
    これだけの資料を集めさせたその情熱は、川崎さん自身のアイデンティティーが源なのでしょう。
    そして、偏見なく世を見る川崎さんは、現在日本で問題になっている移民への差別問題について、かつての日本人移民に向けられた「移民は棄民」という偏見で括られた事実と並列的に語ります。
    
    これは僕の想像ですが、川崎さんはおそらく、かつての日本人移民についての「移民は棄民」というイメージは、そのまま途上国から現代日本へとやって来た移民のイメージと直接的に重なり、それが彼らへの差別に繋がっているのではないか? と考えているのではないでしょうか。僕自身、川崎さんの話を聞いていて(勿論ここには書いていないことも色々と聞きました)、意識することはなかったものの、日本人移民は棄民として扱われたというイメージを知らずのうちに刷り込まれていた事に気づきました。
    
    かつての日本人移民たちが生まれたのは、当時の日本が長期のデフレで不景気に陥っていた背景があるとのこと。それは現代の日本でも同じですが、日本は現在、かつてとは全く逆の、移民の受け入れというその歴史上ほとんど経験した事がないであろう問題に向き合わなければならなくなりました。技能実習生や入国管理局における難民の扱いに関する様々な話題は言うに及ばず、個人的に近いところでも、日本人女性と結婚したカンボジア人の友人は、日本人よりも安い給料で長時間こき使われています。友人の友人のフランス人男性は、日本人の奥さんがいて(当然ビザ持ちで)日本語も話せて、おまけにフランスでパティシエの経験があるにもかかわらず、福岡の有名洋菓子店で時給500円でこき使われているとか(これはもうだいぶ前に聞いた話ですが)。
    
    かつての日本人移民はなぜハワイなど海外の各地を目指したのか? そしてかの地でどのように扱われ、どのように生きたのか? 僕はその点について、現代の移民問題と重ねて考えるため、近々発売されるという川崎さんの著書が待ち遠しくて溜まりません。著書を読んで勉強したいと思います(お金がないのでとりあえず図書館にリクエストします)。
    
    この資料館に来るのは移民問題に興味のある人でしょう。僕が色々と感じたように、この資料館に来れば、移民問題について認識を新たにすることでしょう。
    
    川崎さんは「また来てよ!」と笑顔で僕を見送ってくれました。次は勉強してもっと突っ込んだ話が出来るようにしたいです。
    山口 倫太郎
  • Mazda Zoom-Zoom手話サークル一同 さま(2019/12/22来館)

    
    
    ハワイ移民については漠然としか知らず、この資料館が有ることも周防大島のハワイ移民資料館で初めて知りました。広島にも有るなら、是非行きたい!と見学を計画し伺いました。
    資料館は古民家?を手入れして使われており、日本の古来の伝統建築を大切に保存されていることも素晴らしいと感動。館内に入ると、膨大な数の展示物で、当時実際に使われた生の資料や関連する資料等がぎっしり展示されており、圧倒されました。
    これだけの資料館を作り維持管理するのは、単なる趣味興味の程度で出来るものではなく、私財を投じて、正に館長さんのライフワークなのでしょう。ハワイ移民の歴史に対峙されているお姿に感動しました。
    その資料に触れながら、ご自身の体験やご縁のある方々等の移民の歴史、様々なエピソードを生き生きと話していただき、『広島に住んでいるのに、こんなに知らない事ばかりだったのか?!』と驚きと感動の連続。歴史の裏側で日々奮闘されていた国民の実生活について熱弁をふるわれる館長さんのお話は素晴らしく、惹きこまれて2時間があっという間でした。
    これまで学んだ歴史では知る事の出来なかったお話ばかりで、ハワイ移民政策の背景など不思議に思っていたことも理解でき、日本や世界の歴史を新しい視点から見ることができました。
    しかし、想いのこもったお話を2時間ですべて伺うのは難しく、時間が足りませんでした。 
    機会を作って、是非、再度お邪魔させてもらいたいと思いました。このたびは、貴重な機会をいただき、本当に良かったです。末永くお元気で、沢山の方に貴重なお話を広めてくださることを願っております。
    
    本当に有難うございました!
                           
    
    Mazda Zoom-Zoom手話サークル一同
  • 立命館大学生18名さま、徳永悠 (立命館大学国際関係学部非営勤講師) さま(2019年9月2日来館)

    第二次世界大戦前に日本からハワイに移り住んだ移民の歴史について理解を深めるため、「ハワイ移民資料館・仁保島村」を訪ねました。館長の川崎壽さんのお話を通して、19世紀後半に日本人移民がハワイで働き始める過程について学び、戦前のパスポートや送金手形、葉書などの資料も見ることができました。また、一世の女性の歌声が収められた貴重な録音資料を使って、サトウキビ畑で汗を流した日本人移民の勤労歌「ホレホレ節」を聞かせていただきました。資料館訪問を通して、移民の歴史を身近に感じるだけでなく、今日の日本で暮らす外国人の状況についても当事者の経験や視点を理解することが重要であると学びました。ありがとうございました。
    立命館大学生18名さま、徳永悠 (立命館大学国際関係学部非営勤講師)
  • 千田周吾 さま(2019年4月13日来館)

    数々の資料を目に入れさせて頂き、たくさんの糧になるお話を聞かせて頂き、本当にありがとうございました。心より感謝申し上げます。
    当日は緊張もあり、あまり上手く自分の気持ちをお伝えできなかった事だけが手前勝手な心残りとなったのですが、そんな僕らにも快くご教授を頂き、嬉しく温かい気持ちで東京へ帰り着く事ができました。
    
    僕の求めるものの一つに、「日本人とはなんぞや」という事があります。この疑問自体たいへん漠然としたものですし、過去に向けた答えがあり、未来に向けた答えもありますし、個々人に帰属するような問い・答えとも思うのですが、自分が、その答えへの手がかりとして一つ心に引っかかったものが、まさにハワイへの移民史でありました。(必ず戻るといった目的はもちろんハッキリしていたにせよ)初めてたくさんの人々が日本という国を越えて公に生活をし、仕事をし、家族をつくり、人生を歩まれたという出来事。
    そこにこそ、異国を背景幕に、「(普段の)日本人とはなんぞや」というシルエットが見えるような気がしました。
    
    そしてそのシルエット抜きでは、歴史や戦争や風土や実感だけから自分なりの答えを出しても、まったく足りないような気がしていました。ですから川崎様からお話を聞かせて頂いて、本当に嬉しかったです。もっともっと勉強をして、海外のかたと接する時、いずれ我が子と話する時、パラカの洋服を作る時にも、しっかりとした中身のある自分で臨めるようにしていきたいです。